生命史上の大転換点とされるカンブリア爆発は、地球上に生存している動物のグループ(現生動物門)のほとんどが出現した時期として知られている。この急速な多様化が始まったのは約5億4,000万年前〜5億3,000万年前ごろとされてきたが、実際にはもっと前から兆候が現れていた可能性がある。最新の研究によると、約5億4,500万年前には、すでに現代的な身体構造を備えた動物が地球上を動き回っていたというのだ。
その手がかりになったのは、生物の行動が地層に残した生痕化石と呼ばれる化石である。これは体そのものではなく、足跡や巣穴、排泄物といった活動の痕跡が“化石”として残されたものだ。今回の研究では「積分スケール」という指標を用いて移動痕跡の軌跡の曲がり具合を分析し、移動能力や身体構造を定量的に導き出している。
「生痕化石は、進化史において軟体動物が主流だった時期に関する貴重な情報を提供してくれます」と、バルセロナ大学の博士研究員であるオルモ・ミゲス=サラスは説明する。「それを残した生物の行動が反映されることから、生息環境や外部刺激への反応が見えてきます。まさに太古の生態を示す指標というわけです」
初期の神経系の兆し
ミゲス=サラスらの研究チームは、77種類の現生動物と化石動物が移動した痕跡を調べて、軌跡の曲がり方と体の細長さには比例関係があることを突き止めた。この軌跡の曲がり具合の滑らかさを数値化した「積分スケール」と、体長と体幅の比率から導かれる「標準化された運動構造の長さ(移動に使った体長が体幅の何倍か示す数値)」を照合したところ、身体構造が行動に与える影響が浮かび上がってきたという。
この知見を基に研究者たちは、エディアカラ紀(約6億2,000万年前から約5億4,200万年前までの原生代最後の地質時代のひとつ)後期からカンブリア紀(古生代初期で約5億4,200万年前から約4億8,500万年前の地質時代)初期にかけての111点の生痕化石を分析した。その結果、いくつかの代表的な生痕化石は、すでに滑らかで一定方向に進む軌跡を示しており、これらの痕跡を残した動物の体長が体幅の4倍から12倍にも達していたことが明らかになった。
このような細長い動物は、筋肉と体腔を備えた柔軟な構造を備えており、全身を波打たせて推進力を生み出していたと考えられる。生痕化石に見られる滑らかな移動の痕跡が、その運動様式を如実に物語っているというわけだ。
特筆すべきは、こうした細長い痕跡が現れた時期である。研究者たちによると、およそ5億4,500万年前より後の時代に急増している。これは細長い体をもつ動物がカンブリア紀よりも前から多様化していた可能性を示唆している。
また、これらの痕跡にはカーブが少なく真っすぐに伸びていることから、細長い動物は進むべき方向を感知して外界に反応していた可能性が高いという。つまり、感覚機能の進化がすでに始まっていたことになる。
爆発前の静かな変化
こうした感知能力は、複雑な環境に適応するうえで重要な役割を果たす。当時の海底は酸素濃度が上昇したことで、多様な微生物マット(細菌や藻類などが層状に広がって形成する薄い生物膜)に覆われていたと考えられている。この時代の動物は、さまざまな種類の微生物が入り混じった複雑な環境のなかで、効率よく移動して摂食する必要があった。細長い体は、そのための最適解だった可能性が高い。
このような構造の進化は単なる形態的な変化にとどまらず、神経系や筋肉系の高度化と密接にかかわっていると、研究者たちは考えている。こうした変化により前後の体軸に沿った情報処理が可能になり、外部刺激への反応も洗練されていった。その結果、動物はより複雑な行動パターンを獲得するようになったというわけだ。
このような進化における変化が生痕化石に刻まれていたことは、カンブリア爆発を突然の現象としてではなく、長期的な変化の積み重ねとして捉え直す根拠になるかもしれない。爆発のように見える現象の背後には、すでに数百万年にわたる予兆が存在していたのだ。
この積分スケールと体の細長さの関係を応用することで、今後発見される他の生痕化石の解釈にも新たな視点を与えられると、研究チームは期待している。カンブリア紀に続くオルドビス紀の生物多様化をはじめ、別の進化的な転換点にも応用が可能だという。
生痕化石が語るのは、生き物の姿ではなく行動そのものである。地中に刻まれた軌跡は、太古の生物がどのように環境とかかわり、生き抜いていたかを静かに物語っている。カンブリア爆発の“前夜”には、すでにその萌芽が始まっていたのかもしれない。
(Edited by Daisuke Takimoto)
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雑誌『WIRED』日本版 VOL.56
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