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“普通”の世界をエイリアンの目で見る:小説家・村田沙耶香の実験室

最新作のディストピア大長編『世界99』が話題で、初の映画化作品となる『消滅世界』も今秋劇場公開となる作家・村田沙耶香。芥川賞受賞作『コンビニ人間』がいまや世界で200万部を超えるベストセラーとなった彼女に『The New Yorker』が密着。
村田沙耶香は「人類のため」ではなく「小説そのもののために」書く
村田沙耶香は「人類のため」ではなく「小説そのもののために」書くPHOTOGRAPH: TOKI for The New Yorker

2023年5月の日曜の朝。わたしはマンハッタンにある文芸エージェントが入っているアパートメントに到着した。作家・村田沙耶香を迎えて開かれるブランチ会に出席するため、手土産にレモンタルトを携えて。

エントランスでドアベルを鳴らす。長い間があってから応答する声が聞こえ、さらに長い間があった後、やっと解錠する音がして中に入れた。階段を昇りきったところでドアを開けてくれたのが、今回が初対面のエージェント、ニコール・アラジ。オレンジ色のふわふわしたトラのスリッパを履いている。

「エリフ、ブランチは昨日だったの」と彼女は言った。「まあとにかく、入って。お茶でもどう?」。そのあと、アラギとそのパートナーである編集者のジョン・フリーマン(村田の小説を英国の文芸雑誌『Granta』および自身が編集したアンソロジー集『Freeman’s』で紹介してきた人物でもある)は、別の日の午後に企画していた村田とのニューヨーク近代美術館(MoMA)訪問にわたしを加えてくれることになった。

帰属しない人生を描く

レモンタルトに未練がましく視線を投げつつアパートをあとにしたわたしは、思いがけず手持ち無沙汰な時間ができてしまったので、紀伊國屋書店のミッドタウン支店に行くことにした。紀伊國屋は日本の大手書店チェーンで、村田の英訳本が大々的にディスプレイされている。22年の短編集『生命式』、20年の暗いユーモアに満ちた小説『地球星人』などの英訳本はすべて竹森ジニーが翻訳を手がけ、Grove Pressから出版されたものだ。そのなかにはもちろん、日本で最も権威ある文学賞、芥川賞を受賞した『コンビニ人間』も含まれている。これは18年に村田の本のなかで最初に英訳された作品で、これまでに全世界で200万部以上が売れた。

『コンビニ人間』の語り手、恵子は家にも学校にも居場所がない。彼女が初めて「自分がどこかに所属している」と感じることができたのは、18歳でコンビニエンスストアのバイトを始めたときだった。36歳になった彼女はまだその仕事を続けているが、かつては普通に見えたそのアイデンティティも、最近では周囲の人から、ちょっと変わった気の毒な人としか思われていないことに気づく。

これは小説の設定としてはごく古典的な部類に入るものだ。要は、これは『ドン・キホーテ』の構図なのだ。ドン・キホーテが騎士道物語の規範に従って生きるのと同じように、恵子はコンビニ店員のマニュアルに従って生きている。

自分がもう理解可能な普通の人間とは思われていないことに気づいた恵子は、パニックを起こしたあげく、突拍子もないアイデアを実行に移す。コンビニで一緒に働いていた白羽──グチっぽい非モテ男性で、女性客にストーカー行為をしたせいでクビになったばかり──と同棲を始めるのだ。白羽がシャワーを浴びているあいだに、恵子は妹に電話してこう宣言する。「あのね、実は、今、家に男性がいるんだ」。一瞬の間があった後、妹は大喜びで恵子に祝福の言葉を浴びせる。「お姉ちゃん、今までそういう話したことなかったから……」。妹の勢いは止まらない。「それで、私に報告してきたってことは、もしかして結婚とかもう考えてるの……!?」

それはまるでわたし自身が経験している、痛みに満ち、それを明確に説明する術をもたない人生を、文学のかたちに翻訳したものだという気がした。

もっと具体的に言うなら、30代半ばになって、どこにも帰属しないまま仕事のことしか頭にない人生を送る独身女性であることは、よくないことなのではないかという事実が次第に身に染みてきたわたしの姿を、そのまま写しとって書いたように思えた。世間の人はそういう人間を見ると、不安をおぼえる。この小説が描いているのはそういうことだと気づいたとき、わたしはこの村田沙耶香という作家に、終生変わらぬ忠誠を誓おうと決めたのだった。

そもそも村田沙耶香とはいったい何者なのか。小説の宣伝コピーには、「鮮烈な若き作家の初英訳作品」とあったが、この作品が彼女の第一作でないことは確かだ。実際、村田はそれまでコンビニエンスストアで働きながら、9冊の本を書いている。『コンビニ人間』が出たとき、彼女は36歳になっていた。

約束の日の午後、美術館のエントランス外に立って待っていると、彼女がアラジとフリーマン夫妻とともに近づいてくるのが見えた。ほかの人間とごく普通に対面して知り合いになるという、わたしにとっての永遠の課題に対峙するため、わたしは決然と彼女のほうに向かった。

村田はヴィンテージ風なベージュと緑色のクールなドレスに、深緑色のタイツといういでたちだった。小説というジャンルで言うなら、彼女を見てわたしが最初に思い浮かべた作家はトルストイだ──それも『Kholstomer[邦題:ある馬の物語──ホルストメール]』という小説を書いた作家としてのトルストイ。それは私有財産という考え方がなかなか理解できずに苦しむ“馬”によって語られる物語だ。わたしは自分に念を押しておいた。もしこれから初めて会うのがトルストイなら、ハグしたり服を褒めたりはしない、と。

わたしはほんの数カ月ほど日本語を学んだことがあるが、言えるのはせいぜい「テーブルの上にリンゴがあります」くらいだ。村田の英語はそれよりはだいぶマシなレベルだが、わたしたちの会話はお互いに「はじめまして、よろしくお願いします」と言ったところでぱったりと止まってしまった。

ジョージア・オキーフの展覧会『To See Takes Time』は大混雑でとても入れた状態ではなく、結局わたしたちは常設展をぶらぶら見て回ることにした。わたしは少し距離を置いて村田についていったが、彼女はある彫刻の前でふと足を止めた。それは陸上競技のハードルみたいな形をしていて、金属の脚が2本あり、水平な木の棒が大きな岩をつらぬいている彫刻だった。

「これ、いいですね」。村田は輝くような表情で言った。

壁の説明パネルによると、それは日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチによる1962年の《Stone of Spiritual Understanding》という作品であるらしかった。

「イサム・ノグチの作品ですね!」とわたしが言うと、

「イエス」と村田は言った。まだ、英語で「わかってたわ」と返す方法は学んでいないようだ。

あとから知ったのだが、そのノグチの彫刻は中国の18世紀の小説『紅楼夢』から着想を得たものらしい。ノグチの回想によると、ある意識をもつ石が、ふたりの哲学者が「地球と呼ばれることになるあらたな事象について議論を交わす」のを耳にして、そこへ行ってみようと決めるのだが──これは村田の小説『地球星人』を思い起こさせる設定だった。

失われた怒り

24年5月、わたしはトリノで開かれたイタリア最大のブックフェアで、村田と再会した。彼女がトリノを訪れたのは、14年の自作『殺人出産』のイタリア語翻訳版(『Parti e Omicidi』)を紹介するためだった(英訳者の竹森はいつかこの小説の英語版を出したいと願っているが、その際にはタイトルを『Breeders and Killers(産み人と殺人者)』にしたいと考えているという)。

この作品の舞台は、生殖手段の初期設定がセックスではなく人工授精になっている代替現実世界だ。「望まない妊娠が存在しない」ことによる人口減少の埋め合わせをするため、政府は「殺人出産制度」の導入を決定する。10人子どもを産んだ人間には、ひとりを殺す権利が与えられる、というシステムだ。人工子宮のおかげで誰でも子どもを産むことができるこの世界では、殺人は人口を減少させる限りにおいてのみ「悪」と考えられる。語り手の育子は、この「殺人出産」制度を懐疑的な目で見る人物として登場する。だが物語が終わりに差しかかるころには、彼女が職場の知人を狂ったように刺し殺してしまうのだ。

トリノのブックフェアが開かれているのは、かつてはヨーロッパで最大の自動車製造の本拠地だった元フィアット工場の広大な敷地だ。20分ほど歩きまわった後、わたしは村田のすでにチケットが売り切れになっていたイベントの会場にたどり着いた。外には読み込んでヨレヨレになった『コンビニ人間』のイタリア語版を握りしめた若者たちが大勢集まっていた。

イベントの途中で、村田に話を聞いていた作家でジャーナリストのイレーネ・グラツィオーシが、言われた瞬間ハッとするような鋭い文学上の指摘を口にした。村田の作品の登場人物は、どんなにひどい目に遭おうと、絶望に打ちひしがれようと、決して怒らないのだ。それでいて、怒りはどこか中空にふわふわと浮かんでいる。「ときに、わたし自身がその怒りを投影しなければいけないんじゃないか、と感じることがあるのです」とグラツィオーシは言った。

背筋をまっすぐ伸ばして座っていた村田は、答えを語り始めた。彼女の語る言葉のなかに、ときどき「コドモノコロ」というフレーズが出てきたのが聞きとれた。

彼女の答えが通訳されるのを待っているあいだ、わたしの頭に浮かんでいたのは村田の短編小説『変容』だった。この作品のなかに、若い人たちが「昔のドラマや映画に出てくる怒りのシーン」を見て戸惑う場面がある。「なぜあの人たちはあんなに目を見開いて、大声で叫ばないといけないのだろう?」。また同時に、トルストイの『ある馬の物語』に出てくる馬、ホルストメールのことも思い浮かべた。

ホルストメールは“子どものころ”、自分が誰かの所有物であると知ったとき、こう思うのだ。「わたしは皆がわたしのことを『彼の仔馬』と言うのを聞いて、それがいったいどういう意味なのか、まったく見当もつかなかった。だがその言葉から想像するに、人はわたしと厩の主とのあいだに何らかの関係があると思っているようだった」

短編小説『変容』が収載されている『丸の内魔法少女ミラクリーナ』

COURTESY OF KADOKAWA CORPORATION

ロシアの形式主義批評家ヴィクトル・シュクロフスキーは、その部分を使って「異化」という概念を説明している。つまり、これは読者に世界をまるで初めて見るものであるかのように見せる「形式上のテクニック」であり、それこそが文学的創造の本質だと彼は言うのだ。そのときわたしは、村田の作品中に現れる非常に重要なテクニックである「異化」は、ある種の怒りの抑制を前提としているのではないか、とふと思った。

通訳者が村田の答えをイタリア語に訳したのを聞いてみると、彼女は形式的なテクニックについてというよりは、彼女自身が現実を認識する方法を語っているということがわかった。子どものころ、自分は「ひどい経験」をしたことがあり、そのせいで喉が詰まって一時的に自分の意思を表現したり、怒りを伝えたりすることができなくなったのだ、と彼女は言った。

のちに、彼女は自身が怒りというものにまったくつながりをもてなくなっていることに気づく。おそらく自分の書く小説は、無意識のうちにその失われた怒りを新たなかたちに移し替えようとしているのではないか。彼女はそう締めくくった後、このことを言葉にしてくれてありがとう、とグラツィオーシに感謝の言葉を述べた。観衆からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。わたしの近くに座っていた人は「ブラボー!」と声を上げていた。

その夜、夕食をともにしたとき、村田の英語は1年前よりかなり上達しているような気がした。新作『世界99』の執筆がもうすぐ終わりそうだということだった。これは彼女にとって初の連載作品で、20年から文学誌『すばる』に掲載されていたものだ。

「そうなんですね。どれくらいの長さになるんですか?」とわたしは尋ねた。

「とてもとても長いです」と村田は答えた。

学生のころの彼女にとって、どんな小説が重要だったのだろうか。知りたくなって聞いてみたところ、村田はアルベール・カミュの『異邦人』と太宰治の『人間失格』を挙げた。どちらも1940年代の小説で、社会から疎外されたアウトサイダー、「普通の人生」を送ることができず、適切な親子の感情をもてない人間を描いた作品だ。どちらも最後は死に行きつく。一方は獄中で、もう一方は精神病院で。

太宰の小説の主人公は、すでに子どものころから、いつか自分が偽物だとばれ、人間社会から追放されることを恐れている。ちょうど村田の小説の主人公、恵子のように。太宰の小説を大学生のときに読んだ村田は、「あ、これ、わたしだ」と思ったという。

産むことが自然でない世界で考える

25年4月15日、Grove Pressは竹森訳による村田の2015年の小説『消滅世界』を出版する予定だ(本稿執筆時)。村田がこの小説を書いたのは『殺人出産』の直後で、村田はここでも人工授精が社会標準となった世界を物語り、そこからさらに話を広げていく。

主人公の雨音は千葉県にある小さな家で、母親によって育てられる。その家は、愛を表す色である赤一色に彩られた家だ。母親は雨音を身籠る前、自分と雨音の父親がどれほど深く愛し合っていたかを何度も何度も雨音に語って聞かせ、雨音もいつかきっと同じことを経験するのよ、と繰り返す。だが学校に通うようになると、母親のそんな考え方がいまでは完全に時代遅れになっていることに雨音は気づく(「お前んちって、父さんと母さんがヤッて生まれたんだろ? そういうのキンシンソウカンって言うんだぜ」と、ある学校の友人は言い、「ウゲー、気持ちわりー!」と言って吐く真似をして見せた)。

その社会では、人は誰かと恋に落ちることもあるし、マンガやアニメの架空のキャラクターが恋愛の対象になる場合もあるが、セックスは滅多に行なわれなくなっていた。

母親の語る自分の未来の予言に吐き気をおぼえた雨音は、自分は社会の標準に則った望みを抱いて生きようと心に決める。

幼いころには、テレビアニメシリーズに出てくる齢7000歳を超える少年を好きになる。中学生のときには、ほかのアニメキャラと「デート」したり、ときどき人間の男子と付き合ったりした。彼女の言う「デート」とは、好きなキャラクターの写真やマスコットを紐つきの巾着に入れて持ち歩くことだ。

完全に型どおりの人生設計に従って、いつか誰かとセックスとは無縁の結婚をし、人工授精で子どもを授かり、その「家族」と暮らしながら実物の、あるいは想像上のボーイフレンドとデートを続けていく、というのが彼女の望みだった。

だが結婚して30代になった雨音が、プラダのポーチに想像上の恋人たちをしまい、東京で夫と(純潔なまま)暮らしていくうちに、結婚という制度そのものが時代遅れになり、なんなら違法とさえ考えられるようになってきたことに気づく。

いまでは実験都市として知られるようになった千葉県では、家族の代わりに「楽園(エデン)システム」が機能していた。毎年12月24日に一斉に行なわれる集団的な人工授精の結果生まれた子どもたちは、「センター」で集団的に育てられる「子供ちゃん」になる(「ちゃん」というのは小さくてかわいいものにつける愛称だ)。

雨音と夫は衝動にかられ、実験都市へと居を移す。するとまず都市の規則に従って、ふたりは結婚を解消するように言われる。都市に住むことになった人間は、「公園」に出かけて住民の義務を果たさねばならない。その義務とは、大人を見ると誰彼かまわず「おかあさん!」と叫んで駆け寄ってくる、性別すらほとんど見分けのつかない、愛に飢えた「子供ちゃん」たちの群れを思いきりかわいがってやることだ。

その状況に戸惑った雨音は、「猫カフェみたいだね」と冗談めかした嫌味を言う。だが彼女の元夫は幸せそうに笑いながら言うのだ。「はは、そうだね。ここは巨大な『赤ちゃんカフェ』みたいなものだなあ」

クライマックスのシーンで雨音は、元夫が人間の赤ん坊を男性として初めて(帝王切開によって)産むことに成功する場面を目撃する。人工子宮というテクノロジーの歴史に大きな一歩を刻むことになる画期的な瞬間だ。

医師は血まみれの赤ん坊を抱き上げる。至福に満ちながらも疲れ果てた表情で横たわる雨音の元夫──母親──の切り開かれた人工子宮の横には、ペニスが力なく垂れ下がっている。その姿は十字架から降ろされたイエスを抱きかかえて悲しむ聖母マリアを描いたピエタと幼子イエスを抱く聖母マリアの姿を併せもつもののようだった。

雨音の網膜には、新たな絵画的場面が焼きつけられたような気がした。それは彼女が「本能的で生理的」だと信じていた感情──例えば彼女が「自分自身の」生物学的な子どもに対して感じていると思っていた強力な無二の愛──を改めて定義し直すものだった。何列にも並ぶ生まれたばかりの「子供ちゃん」たちを見つめているうちに、この子たちは全員、本当に自分の子どもなんだ、という認識が雨音のなかに湧き、「互いにつながりあった人生という壮々たる光景の否定しようのない正しさ」に圧倒されるような気がした。

正直に言おう。この小説の大部分は、読むのがかなりキツかった。雨音がすべての「子供ちゃん」たちに愛を感じるようになる場面は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の最後の1行(「彼はビッグブラザーを愛していた」)を気味が悪いほど連想させた。

だが「二重思考」「集団思考」「記憶の穴」といった『1984年』でおなじみの言葉に村田が魅力を感じていることは間違いないにしても、わたしはこの小説を『1984年』と安易に比べたくなかった。なぜなら『1984年』は、若い女とセックスすることによって全体主義を転覆させようと目論み、「『シェイクスピア』と密かにつぶやきながら」目覚める男の話だ。

直観的に、わたしは村田をもっと急進的で、ノスタルジーとは無縁の思想家たちのグループに含めていた。例えば、生物学的とか普遍的と思われている現象──狂気、セックス、犯罪行為、薬物使用──の大部分が社会的に構築されているものだと示したミシェル・フーコー。あるいは、自著『性の弁証法』で、生殖労働を担う女とそれには関わらない男とのあいだに存在する生物学的不平等という観点から人類の歴史を説明したシュラミス・ファイアストーン。

ファイアストーンは性差別主義があらゆる抑圧の源であると考え、人類の自由が実現される新時代は、「人工生殖」のテクノロジーにより子どもたちが「男女ともに完全なる平等のもとに生まれる」ことが可能になったとき初めて実現する、と唱えた。そうしておそらく家族ではない、志を同じくする人びとのグループによって育てられた子どもたちは、現在のわたしたちのように所有の対象として(この子はわたしたちのものだから、わたしたちが苦労してつくりだしたのだから、と)愛されるのではなく、ただそこに生まれてきたままの存在として愛されるのだ。

シュラミス・ファイアストーンなら、村田の描く実験都市をどう捉えるだろうか、とわたしは考えた。この都市はまるで、ファイアストーンが思い描いた改革の多くを、思いきりグロテスクな形で実現した都市ではないか。

村田の最新作『世界99』でも、ファイアストーンの唱えた前提が繰り返される。今回子どもを人間の代わりに産む存在として選ばれたのは、アルパカに似たペットだ。22年の『WIRED』とのインタビューで、村田は「自分としては、女性を妊娠という重圧から解放しようという計画だった」と語っている。「でも書いているうちにどんどん地獄のような世界になっていって。結局何ひとつ解決できませんでした」

小説の神様に導かれて

25年1月のとある雨の朝、わたしは東京の水道橋駅の近くで村田と落ち合い、竹森ジニーを訪ねるため、数回電車を乗り継いで茨城県にある学園都市つくば市へと向かった。

村田は重そうなトートバッグをいくつも抱えていたが、実はそのひとつには1,000ページにも及ぶ『世界99』のゲラ刷り原稿が入っていた。チェックの締め切りは2日後だという(村田は仕事を自宅ではなく、必ずカフェやレストラン、ときには出版社でしているため、常に原稿や執筆用パソコンを持ち歩いている)。

東京女子大学の准教授であり、司法通訳を務めるセランド修子も同行していた。彼女は長らく村田の作品を愛読するファンでもある。

竹森はみごとな屋根瓦の葺かれた日本家屋に住んでいる。解体された寺の瓦を流用したものだそうだ。彼女は昼食に、エディブルフラワーを散らしたサラダと、トウモロコシ粉のパイ皮に入ったチキンの煮込みを用意してくれていた。東アフリカと英国で生まれ育ち、ここ20年ほど日本に住んでいる竹森は、料理を母から習ったという。

一方、村田が料理を習った記憶には不安な気持ちが混じる。時折、父が夕食の食卓に着きながら、料理に手をつけなかったことを思い出す。なぜ?「箸がない」から。すると母が箸を持って来る。いまでは、村田はほとんど料理をしない。炊飯器の上には花瓶が載っている。

11年、竹森はいくつかの小説のリストを渡され、そのうちの1作を選んで翻訳してくれと言われた。その年に起きた東日本大震災の犠牲者へのチャリティ・プロジェクトとなる、日英2カ国語のアンソロジーを編むためだ。彼女が選んだのは、村田の『かぜのこいびと』だった。これは少女が最初はロマンチックな、のちには性的な思いを自分の寝室にかかったカーテンに抱く物語だ(物語はそのカーテンによって、不幸な三角関係として語られる)。

竹森はのちに『Granta』に掲載するため、もうひとつ別の作品『清潔な結婚』を訳したが、彼女のFacebookには読者からもっと村田の作品を読みたいというメッセージが多数寄せられるようになった。その次に舞い込んだのが、『コンビニ人間』翻訳の話だった。

竹森によると、村田の新作『世界99』は、彼女の作品に繰り返し現れるテーマをこれまで以上に深く掘り下げたものだという。「このテーマは、もう古いなじみの友人みたいなものですよね」と竹森は言った。舞台は村田の生まれ育った故郷である千葉のニュータウンがベースになっている。戦後の高度成長期、東京の近くにはこういったニュータウンがいくつもつくられた。

村田が生まれたのは1979年。彼女の子ども時代は、ほぼジェンダーによる役割設定によって定義されていた。まだ幼いころから、親戚の集まりなどで「安産型のお尻をしてるね」と言われてきたことをおぼえている。それでも、兄のことを羨ましいと思ったことはなかった。彼女の目には(それが事実であったかどうかはさておき)、兄は一流大学に入れというプレッシャーを受けているように見えたからだ(彼女の兄は現在51歳、金融関係の会社で働いている。村田と同じく彼にも子どもはいない)。

小学校時代の村田は、内向的ですぐ泣いてしまう子どもだった。トイレにこもって泣き続けた挙句、嘔吐してしまうことも度々あったという。書くことに目覚めたのは10歳のころだった。彼女は文章のことを「教会」と呼び、いまだに書くことを光に満ちた「小説の神様」が支配する聖なる世界の一部になることだと考えているらしい。

12歳になるころ、母親がワープロ(富士通OASYS)を買ってくれた。このマシンは、小説の神様とじかにつながることができるものだと村田は考えた。小説の神様は、どの小説が出版されるべきかを決めている。彼女はよく、本屋で自分の書いた小説を探した。それらは「神様に選ばれたのだと思っていました」と彼女は言った。

村田の父親は、地方裁判所の裁判官だった。「分厚い法律書は父にとっての聖書のように見えました」と村田は言う。「裁かれる人が正しいか正しくないかは人間にはわからなくて──その本のなかの言葉が決めていると想像したのです」。村田は「正義」という概念にも固執するようになった。

小さいころに受けた影響について尋ねると、村田は子ども向け小説やマンガ、アニメの作品名や作者名を滔々と並べたてた。そのひとつに、90年代のアニメシリーズ『ふしぎの海のナディア』がある(宮崎駿原案による、ジュール・ヴェルヌの小説からヒントを得た作品)。

主人公ナディアは、謎に満ちた褐色の肌の少女だ。ナディアが人種的な差別を受けるエピソードを観た後、村田は「人種差別に苦しむ主人公」が登場する物語を書いた。「それ以来、人種差別という概念がわたしのなかにインプットされたんです」と村田は言う。

のちにいくつかの物語は障害者や薬物常用者が差別を受ける話へと発展していく。だが中学生になると、彼女はそういうテーマを安易に扱った自分の作品たちに「吐き気をおぼえる」ようになり、すべて廃棄してしまう。村田は常に自分自身を疑っていた。最後には、「正義そのものの存在を疑うようになりました」と彼女は言った。

同級生の女の子のグループに無視されてしまった中学時代は、とくにキツい時期だった、と村田は語る。そのつらい現実を、1日10時間を執筆に費やすことで乗り切った。「子どものころ、たくさんの人に死ねと言われました。たぶんわたしは死んでたんだと思います」と、淡々とした口調で村田は言う。「わたしが生き延びたのは、小説の力のおかげです」

次の日、わたしは『コンビニ人間』の出版社である文藝春秋へ向かった。村田とわたしが面会する予定の会議室と同じフロアにある部屋を、ライツビジネス部のサホ・ボールドウィンが案内してくれた。そこはベッドと机とシャワーが備えつけられた部屋で、作家がさまざまな誘惑を絶って執筆に集中できるように籠るための、いわゆるカンヅメ部屋だ。村田は同じつくりの隣の部屋から、キャリーケースを引いて現れた。『世界99』の仕上げのため、その部屋を深夜まで予約してあるのだという。

高校は思いがけず、とても楽しい場所だった、と彼女は言った。新しいクラスメイトに出会い、友だちができた。文章の面では、“文体”というものの存在に初めて気づき、これこそが自分の求めていたものだと気づいたという。

彼女が例に挙げたふたりの作家は、山田詠美と三島由紀夫だった。山田の『風葬の教室』(88年)は、学校でのいじめについて日本で最も早い時期に書かれた小説だ。村田にとって、誰かの文体をそのまま自分のものにすることができないと認めるのは、かなりの痛みを伴う出来事だった。自分は自分の文体を、何もないところから築き上げていくしかないのだ。

文藝春秋のライツビジネス局長である新井宏が立ち寄って、わたしに日本の文芸市場を知るための短期集中講座を実施してくれた。新井によれば、村田のこれまでの経歴は、「純文学」(出版業界の収入の大部分を占める「大衆文学」やマンガの対極にあるジャンル)の作家としては「ごく典型的なもの」だということだった。

2003年、村田は小説家としてデビューを飾る。中編小説『授乳』が文芸誌『群像』──日本の文芸出版社が発行している5大文芸誌のひとつ──の新人賞で優秀作を受賞したためだった。家庭教師に授乳する女学生を描いたこの小説は、最初『群像』に掲載されたのち、同じ出版社から単行本として出版された。ほかの出版社から出た単行本も、同じ経緯をたどっている。

作家に支払われる原稿料は日本ではほぼ一律であるため、ほとんどの作家がエージェントを使わず、特定の出版社と専属契約を結ぶこともない。村田のように複数の出版社から作品を出すことを、有名作家の証だと考える人たちもいる。

「純文学」だけで食べていくのは難しい。村田は自分の書くものにあれこれ指図されることを恐れて、東京の玉川大学の学生だったころから続けていたコンビニエンスストアのアルバイトを、デビュー後も続けることを選んだ(彼女は学芸員の資格をもっているのだが)。勤めていた店が閉まると、別の店に異動になる。そんなことが数回起きた。その仕事は彼女に「社会とのつながり」と、「繰り返される日課」の感覚を与えてくれた。午前2時に起きて6時まで執筆し、8時から1時までコンビニエンスストアで働く。その後またカフェで執筆してから、家路につく。

16年に芥川賞を獲った後も──ちなみに賞の審査員のひとりは高校時代の憧れの作家、山田詠美だった──コンビニエンスストアで働き続けていた村田は、客に作家だと気づかれるようになる。彼女をつけまわして、不可解な物体や手紙を寄こしたりする人間たちも現れた。そのときの店長(受賞時の店長とは違う社員に変わっていた)に相談し、村田は仕事を辞めた。しばらくしてから、店長から電話がかかってきた。「村田さん、戻ってきてよ! あいつ、新しいターゲットを見つけたから」。彼女をつけまわしていたストーカーは、近くで働く別の女性に興味を移したらしかった。だがそれを聞いても安心できず、結局村田はその店に戻らなかった。

「すごく好きだったんです」と、彼女は英語で、そのコンビニエンスストアについて言った。作家になったせいで、好きなことから離れなければならないのは悲しいですね、とわたしは言った。「悲しいです!」と、わたしが言ったのとまったく同じ口調で彼女は英語を発した。

村田が最初に勤めた店は、両親の住む家からそう遠くないところにあった。彼女は30代の半ばになるまで実家で暮らしていたが、いまはそこから遠くないワンルームマンションに住んでいる。なぜもっと早く実家を出なかったのかと聞くと、経済的に不安だったから、と彼女は言った。「親を利用してたんですね」

「でも、ご両親は一緒に暮らすことを喜んでいらしたと思いますよ」と、わたしはうっかり口を滑らせた。彼女の感情を伴わないような言い方に耐えられなかったのだ。村田は少し考え込んだ。「どうでしょうか。自立できない私のことをあんまり喜んでなかったと思います」と彼女は言った。「もし介護や家事の全てを素晴らしくできる『優秀なサポート要員としての娘』なら喜ばれたかもしれませんが、自分はそうではないので」

後日、わたしは元MTVのプロデューサー、川村誠に会った。彼の初監督作品となる『消滅世界』の映画化作品が、25年秋公開予定だ。あの小説を読んで、自分のなかの本当に深い部分を揺さぶられました、と彼は言った。彼にとってあの小説は、SFというより現実社会を映す“鏡”のようなものだという。そこに映し出されているのは、現代日本のトレンドである「減少の一途をたどる出生率、恋愛や結婚への無関心、セックスレス、アニメキャラとの恋愛」といった現実だ。

脚本を書いているとき、彼の頭に浮かんだのは前掲の『1984年』やオルダス・ハクスリーの『素晴らしき新世界』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』といった小説だった。だが、村田の小説は基本的に「ディストピア小説」ではないと彼は考えている。なぜなら雨音は政府と敵対したりしないし、超越的あるいは歴史に無関係な「正しさ」の存在を信じてもいないからだ。彼女はあくまで、自分が生きている世界の秩序がどんなものであろうと、それを愛したいと思っているだけなのだ。

川村にとって村田は、現行の基準が言うまでもなく正しいと盲信している「世界的なトレンド」に対して、修正案を提示しているように見えるという。わたしは『殺人出産』の最後の場面の、血まみれになった育子の言葉を思い出した。「たとえ100年後、この光景が狂気と見なされるとしても、私はこの一瞬の正常な世界の一部になりたい」

同時にわたしは、ヴィクトル・シクロフスキーのことも思い浮かべていた。シクロフスキーは「異化」について書いた批評家だ。レーニンが死にスターリンが跡を継いだのち、1926年に出版された著書『第三工場』には、こんな喩えがある。作家とは、“時”という工場の中で“処理”されつつあるフラックスシードのようなものだ。「時は間違いを犯さない。時がわたしに間違ったことをしたはずがない」とシクロフスキーは書いた。

村田もまた、自分のことを「世界──特に日本社会──のなかに、小説を書くための道具あるいは素材として置かれた」というふうに表現している。シクロフスキーと同じように──そしてたいていの英語圏のディストピア小説の主人公たちとは違って──彼女は自分の置かれた場所を、逃げ出すべき悪夢だとは感じていない。

村田がかつて語ったように、もし「世界がわたしを日本というコンテクストのなかに置くことで、実験を行なっているのだとしたら」、わたし自身もその実験の結果を見てみたい、と彼女は言う。小説『地球星人』の終わりの部分で、主人公たちは「地球に迷い込んだ」宇宙人のように生きていこう、と誓う。そして、村田自身も彼らの決意にどこか同調している部分があるように思える。それはつまり、「すべてのものをエイリアンの目で見る」ということなのだ。

「小説家・村田沙耶香」の実験室

日本には古くから続く物語文の由緒ある歴史がある──例えば『源氏物語』が書かれたのは11世紀である──とはいえ、近代日本の小説の伝統が始まったのは、19世紀後半の明治維新のころだったと言っていい。当時の日本では、西洋の小説が続々と日本語に翻訳され始めていた。日本語の文法には話者と被話者との関係を示す言葉が多数含まれるため、三人称全知話者による語りを訳すとき、翻訳者は大きな問題に直面した。

批評家のなかには、こういった日本語文法の特徴が、明治期における「私小説」の発展につながったと考える者もいる。この「私小説」という形態においては、主人公は往々にして作者と同じ自伝的背景をもち、時には名前にも作家自身の名前が使われる(村田にとっての最重要作品である太宰の『人間失格』も、この伝統に則って書かれた小説だ)。

だがわたしが村田とその編集者にこの「私小説」の話題をもち出すと、ふたりとも村田の作品は私小説ではないとキッパリと否定した。村田が語ってくれたところによると、「自らの経験をフィクションへと昇華させる」ことができる人たちには多大な尊敬の念を抱いているが、自分自身は「清潔に殺菌された水槽」から話を始めることしかできないのだという。

村田は何度か、執筆のプロセスを図式化した絵を描いて見せてくれた。

中央には実験室のテーブルの前に、ひとりの人物(「小説家・村田沙耶香」)が立っている。テーブルの上に載っているのは、バラバラに切り刻まれた同じ人物だ(「人間・村田沙耶香」)。さらに、体の一部や臓器が入ったさまざまな形の箱がある。ページのいちばん上には、ガラスの立方体──清潔に殺菌された水槽──がある。

これらがどう機能するのかというと、「小説家・村田沙耶香」は「人間・村田沙耶香」を素材として扱い、バラバラに切り刻むのだと村田は説明する。そうして「人間・村田沙耶香」のさまざまな面が水槽の中で「結晶化」する。水槽の中ではノートから生まれた新たなキャラクターが動き始める。キャラクター、あるいは物語そのものが自分の命をもっているかのように。「それは勝手にくねくねと動き始めて、いつも本当にびっくりさせられます」と村田は言った。

わたしが彼女の本で読んだ内容は、たぶんすべてこの絵のなかにある、と村田はあっさり認めてしまいたいようだった。なぜならその実験室の地下は「巨大な無意識の世界」とつながっているからだ。だが、そのことについて彼女に尋ねても、ほとんど意味はないように思えた。

ある時点で、彼女は「小説家・村田沙耶香」をペンでとんとんとつついた。まるで、「あなたが話しているのはこの人よ」と言うかのように。そのときわたしの頭に、ある恐ろしい考えが横切り、ゾッとした。ひょっとして答えを知っているのは、テーブルの上に切り刻まれて載っているほうの、もうひとりの村田沙耶香なのではないか。

別の日、わたしたちは村田の小説にもよく登場する喫茶店、神田伯剌西爾(神田ぶらじる)に行った。ここは昔ながらの日本式の喫茶店で、店内に喫煙席があり、メニューにはシングルオリジンコーヒーの長いリストが載っている。村田の友人である作家、西加奈子を待つあいだに、わたしはもう一度村田にここ数日わたしを悩ませているテーマについて聞いてみることにした。村田とエイリアンとの関係についてだ。

以前にもいくつかのインタビューで、村田はある出来事の話をしていた。彼女が幼いころ、寝室の窓からエイリアンが入ってきて、彼女を遠くの惑星へ連れて行ったというのだ。そこには大勢のエイリアンが暮らしていた。

いままでの会話で村田からは、エイリアンについてざっくりとしたレベルの話はできるけど、あんまり細かいところには踏み込んでほしくない、という趣旨のことを言われていた。ほかのインタビューでこの話に触れたことにより村田は命の危険がある発作を起こした。心療内科の担当医は、「この話に触れることを一律禁止とする」という、彼女にとって3度目のとても厳しいドクターストップを出した。そのため、ごく親しい友人やジャーナリストに対してもいまでは決して話してはいけないということになった。

村田は2003年の作家デビュー直後、ある編集者から「お前は小説を書くのはやめろ」と忠告されたという。そのとき、彼女は恐ろしい麻痺と乖離を引き起こし、しばらく自殺願望と殺人願望のあいだで揺れ動いていた。その後彼女は、精神科で治療を受けて回復する。精神科医は、1回目のドクターストップを出し、エイリアンのことを決して具体的に口にしないよう、彼女にアドバイスした。

エイリアンに会うもっと以前、とても小さいころから、彼女は人ではない相手に恋愛感情を抱く傾向があった。「わたしにはフィクトセクシュアル(架空のキャラクターに惹かれる性的指向)の傾向がかなり強くあるんです」と彼女は言う。その言葉は初耳だったが、すぐにわたしの頭には『消滅世界』の主人公、雨音のことが浮かんだ。大人になるまでに、雨音には40人ものアニメキャラの恋人がいたのだ。『消滅世界』を書いたときには、村田も「フィクトセクシュアル」という言葉をまだ知らなかったという。

喫茶店でさらにわたしは、22年に『The New York Times』に載った「日本におけるフィクトセクシュアリティ」に関する記事について、村田に聞いた。その記事に取り上げられていたのは、ゲーム「刀剣乱舞ONLINE」に出てくる架空のキャラクター、堀川国広と内輪の結婚式を挙げた20代の女性の話だった。彼女は両親との夕食のときにも、彼の小さなアクリルフィギュアを自分の茶碗の横に立てて同席させる。

アクリルフィギュアの話が出たところで、村田は急に持っていたバッグの中をがさがさと探し始めた。「わたしも、いつも持ち歩いているアクスタがあるんです」。彼女が愛するひとりは、「魔法使いの約束」というスマホ向けゲームのキャラクター、2000歳の医師、フィガロだ。大学生のころ、「自分が決して逃れられない現実」として現実の男性と交際しようと努力したこともあった村田だが、20代半ばで自分には「物語のなかで生きている人」たちが幼少期から自分の実際の恋愛と性愛の対象で、フィガロのようにゲームや漫画、アニメーションのなかの人物と生きていることが自然であるなら「現実人間セクシャル」として無理に生きていなくてもいいのだと気がついた。とてもほっとして、「現実人間セクシャル」であろうとすること、恋愛至上主義や性器結合主義が中心となっている世界の一員であるふりをすることをやめたという。

『消滅世界』のなかで、雨音は「現実の人間との愛」(常に「マニュアルどおりの」感情しかもてない)と「非現実の人間との愛」(常に「何か新しい答えを見つけ出そうとする」ところから始まる)とのあいだに、はっきりとした一線を引いている。フィクトセクシュアルな相手とのラブシーンは、村田の作品にはめったに出てこない純粋な官能的喜びに満ちている。

それはどこかセリーヌ・シアマの映画『燃ゆる女の肖像』を思わせるところがあった。この映画では、ふたりの女性がエロティックな結びつきの新しいかたちを発明する(「恋人たちは皆、自分たちが何か新しいことを発明していると感じるのだろうか?」と、女のひとりがもうひとりの脇の下に幻覚剤を塗りながらつぶやく)。

シアマと同じように、村田も伝統的な愛の物語を再構築し、もはやジェンダーにさえも囚われず、肉体という実体によってのみ課される制約を易々と超越していく。

「わたしにとっては、性的衝動とは必ずしも性的行為につながるものではないんです」と村田は言う。それは視覚的かつ感情的なもので、肉体的である必要はない。わたしはここで哲学者ヘルベルト・マルクーゼの名をもち出した。彼の考えによると、真に非抑圧的な社会においては、「性器の優位性」は消失し、身体全体が快楽の道具として新たに性的欲望の対象となるという。

「恋愛し繁殖することは世界からの絶対的な命令で、決して逃れられないのだと幼少期から強く思っていたので、気づくまでにものすごく時間がかかりましたけど、いまのありかたが自分にとって最適である気がします」

やがて西がやってきた。彼女は『VIO』という短編を書いていて、アリソン・マーキン・パウエルによる英訳も出ているのだが、その小説についてわたしはぜひ話を聞きたいと思っていた。

小説のなかで、ガールズバーで働くリナは「VIO脱毛し放題クーポン」を握りしめて脱毛サロンを訪れる。VIOとは実際に日本で使われている言葉で、「Vは前の部分……Iは陰部の両サイド、Oはえっと、ほら、あそこの穴のまわり」を指す。

脱毛サロンのエステティシャンが施術の際に自分のホクロに白いシールを貼るのを見て理由を尋ねると、レーザーは黒いものを燃やすから、と説明される。このメラニンだけを燃やすテクノロジーが兵器に転用されたら、いったいどうなるんだろう? とふと考えたリナは、やがて虐殺の歴史を調べることに取りつかれていく。それまではスマホに「ジェ」と打てば「ジェルネイル」と予測変換が出ていたのに、そのうち「ジェノサイド(大量殺戮)」という言葉が出てくるようになってしまう。

わたしにとって、村田の作品は常に、程度の違いはあれ、ジェノサイドに関わる部分があるという気がしていた。そこでは「社会」という小宇宙がひたすら結束を固め、その社会にとって異質な要素を排除しようとする。生殖と自身の遺伝物質を、まるで昆虫のように盲目的に維持していこうとするのだ。

「彼女に会っていなかったら、わたしの人生はもっと楽だったと思います」と西は言った。村田の本を読むと、それまでの自分の信念をすべて疑いたくなるという。自分の子どもに対する愛さえも。彼女の小説にはなぜそれほどの力があるのか?

村田は自分の小説と現実世界の出来事のあいだには、何の関係もない、とはっきり言った。

「では、あなたは自分の小説が政治的だと考えたことは一度もないんですね?」とわたしは尋ねた。その質問が口から出た瞬間、彼女が「水槽」の話をもちだす気だ、とわたしにはわかった。

「わたしは、わたしの水槽を人間の考えで汚したくないんです」

「わたしは……わたしの水槽を……人間の考えで汚したくない」。ノートに文字を走り書きしながら、わたしはその言葉を繰り返した。

源泉の地:千葉ニュータウンで

一緒に過ごした最後の日、村田はわたしを千葉ニュータウンに案内してくれた。

そこは彼女が育った場所であり、彼女の小説の主人公の多くが育ったと暗示される場所でもある(列車の中で、わたしは『地球星人』の舞台である未来ニュータウンのことを思い出していた。主人公の奈月はその町のことを、人間を製造する工場みたいだと考えている──各家庭は「繁殖用のつがい」とその子どもが暮らす巣で、自分もいつか社会にとっての生殖のための道具になるのだろう、とわかっている。だがのちに、教師から性的虐待を受ける悲惨なシーンで、奈月は自分がすでに社会にとっての道具のひとつにすぎないことを理解する)。

より思弁的な村田の小説においても、千葉県は生殖管理を司る機関がある場所として描かれることが多く、雨音の元夫が出産する病院も千葉県にある。

通訳のセランドと文藝春秋のボールドウィンとともに千葉ニュータウン駅に降り立った村田とわたしは、駅を出たところにある大きな広場へと向かった。マンション群とショッピングセンターに囲まれたそこは、魅力のかけらも感じられない場所だ。そこで、わたしたちはつくばからクルマを飛ばしてきた竹森夫妻と落ちあった。誰もが実験都市を実際に見てみたいと思っていたようだ。

わたしたちが最初に立ち寄ったのは、サイゼリヤというイタリア風レストランのチェーン店だった。そこは巨大なショッピングモールの子ども用品フロアの一角にあり、隣には子ども用品の専門店(キッズリパブリック)とヘアサロンがあって、死んだような目をした巨大なテディベアが飾られている。村田はいつもオーダーするというほうれん草のソテーとフォカッチャを頼んだ。わたしが選んだペンネ・アラビアータについては、とりあえずたっぷり盛られたこのメニューがたったの2ドル30セント(430円)で食べられるのはすごい、とだけ言っておく。

そのあとわたしたちは、20分ほど歩いて村田の通っていた中学校へと向かった。2階建の細長い建物だ。わたしは胃の中に鉛が入ったような重苦しさをおぼえた。まるで自分が通った中学の外に立っているような気がした。

「中学はとても苦しい場所でした」と村田は言った。「グループの子をひとりずつ順番にいじめていく女の子がいたんです。わたしも標的になりました」。いじめっ子の号令により、同じクラスの子たちが標的になった子を無視し、「死ねば」といった言葉しかかけなくなる。

当時は家にも「いじめからの回復を助けてくれるような対話」を見いだせなかったという。それで彼女は、どこかから自殺のためのマニュアルを手に入れた。そのマニュアルが自殺の方法として薦めていたのは、凍死だった。村田は山奥に行って凍死するという計画を立て、決行日をカレンダーに書きこんでカウントダウンを始めた。

そのころまでには、彼女は怒る気力さえなくしていた(怒る能力は、幼少期にいつの間にか「壊れてしまっていた」と彼女は言う)。やがて彼女はいじめっ子を、科学的な調査の対象として見るようになる。そうすることにより、いじめっ子の行動を理解できるかも、と思ったのだ。彼女はいじめっ子の家まで跡をつけ、「いじめっ子とその家族との関係を調査する」。だが、いじめの理由は見つからなかった。「その子は父親に殴られてもいなかったし、両親からひどい扱いを受けてもいませんでした」

村田は自分が「かわいそうな加害者」というシナリオをつくり上げようとしていたことに気づき、自分を責めた。「わたしはニュースで犯人の背景に『わかりやすい物語』を望む人たちみたいな考え方に取りつかれていたんです」と彼女は言った。「それに気づいたとき、ゾッとしました」。それがどういう意味なのか、わたしにはよくわからなかった。理由を求めること──あるいは悲しい理由が隠されていると期待することの、何がいけないのだろう?「わたしは自分の心を救うために、彼女の人生を勝手にでっち上げようとしたんです。それは恐ろしく残虐な暴力です」

わたしたちは歩き続けた。わたしの頭は混乱したままだった。残虐な暴力と言えるようなどんな恐ろしいことを、彼女はしたというのだろうか? 彼女は虐待された孤独な子どもの悲しいお話をつくり上げ、それを確認しようとしただけではないのか? ではわたしがここでしている、彼女の子ども時代を調べ上げるという行為も、それとまったく同じことではないのか? 彼女が抗議しているのは、自分がいじめっ子についてつくり上げた話のことだけではなく、明らかに他人が自分についてでっちあげた話に対する抗議もそこには含まれているのではないか?

わたしたちは背の低い木々の植えられた、小さな建売の家が立ち並ぶ住宅地にやってきた。そのうちのひとつの「村田」という表札のかかった家まで来ると、村田はドアの鍵を開けた。

大戦後の日本の憧れを具現化したその家は、2階建で3つの寝室があり、所狭しと物が詰めこまれている。しばらくのあいだ、誰も住んでいないようだった。置かれたさまざまな装飾品は、「まさに昭和チック」なものばかりだ(昭和とは1926年から89年まで続いた時代で、とくに戦後期を指す言葉として使われる場合が多い)。ガラスケースに入った無表情な着物姿の人形。台所にある墓石のような形の器具は、昭和時代のトースターだった。歯ブラシが1本入ったカップが、シンクのそばに置いてある。両親はいまでもときどきここに泊まりに来ているみたい、と村田は言った。

2階の兄の部屋には、音響機器が多数置いたままになっていた。本棚に村田の出版された作品がほぼ揃っているのを、竹森が発見した。それがなぜここにあるのかわからない、と村田は言った。彼女が小説家デビューしたときの作品の内容は「悲しい母娘問題」に結びついたのだという。自分の小説は、母には衝撃が強すぎる、と彼女は心配になった。「だから母にはこう言いました。第一に、わたしの小説はお母さんとはなんの関係もない。第二に、お母さんはわたしの書いたものを読まないほうがいい、と」。それ以来、母親は彼女の小説を1冊も読んでいない。

次にわたしたちは彼女の両親の部屋へやって来た。村田は英語でこう言った。「子どものころ、わたしは両親のあいだで寝ていました、川の字になって」。「川」とは流れる水を表す漢字で、3本線を引いて書くが、両親と子どもがひとつの布団に並んで寝るようすを言うのに使われる。そこは昔ながらの畳の部屋だった。毎朝起きると、布団をたたんで押し入れにしまう。

村田は押し入れを見せてくれた。何もないその部屋に立っていると、最初は村田の人生に関する最も重要な質問だと思えていたこと──子どものころの彼女の不幸を描いた絵があるとすれば、彼女の両親はそのどこに描かれているのか──は、たいして重要ではないことがわかってきた。

不幸はただ不幸としてそこにあるのだ(のちにわたしは村田の親しい友人である小説家の朝吹真理子に、村田の両親について聞かせてほしいと頼んだ。「おもしろい話も、怖い話も、両方聞きました」と彼女は答えた。「沙耶香には、いつか書こうと考えている話があるんじゃないかと思います」。その一方で、彼女はこう付け加えた。「友人として、わたしに言えることは何もありません」)。

村田の寝室には、『かぜのこいびと』の設定のもとになったカーテンがかかっていた。壁際には、村田が初期の小説を書き上げた小さな机が残っている。

「これってすごくアール・ヌーヴォーで中産階級的な昭和のランプね」とセランドは言って、ツインベッドの上に下がった花型のガラスのランプを見た。

「こういうランプの下で暮らすのが似合うような、かわいい女の子を育てるのが、たぶん母の夢だったんです」と村田は言う。

「いまここにいるのは、どんな気分?」とわたしは尋ねた。

彼女はしばらく考えこんだ。「何も変わってませんね」と、だいぶたってから彼女は言った。

小説そのもののために書く

東京行きの電車に乗る前、わたしたちはもう一度駅の近くのショッピングモールへと戻った。お茶を飲みながら、わたしは村田に芥川賞授賞式での彼女のスピーチについて訊いてみた。西加奈子によると、村田は「私はいつか、人類を裏切るものを書くかもしれないです。人類を裏切っても、小説を裏切らないようにしようと思います」というようなことを言ったのだそうだ。

村田はそれに対して、こう説明した。「みんながニコニコして、幸せそうでした」。だからその人たちに、自分はいつかあなたたちを裏切ることになると知らせたかったのだ、と彼女は言う。また彼女は、その言葉を自分のために言ったのでもあった。結果をはっきりと認識した上で、「楽しく小説を書く」ことができるように。その結果、「わたしは人間であることから除外されるかもしれませんが」

その言葉に、わたしは衝撃を受けた。それはすべての小説家の心の奥底にひそむ怖れではないだろうか? それを彼女はなんと静かに言葉にするのだろう? 彼女は虚勢を張っているようにはまったく見えなかった。

村田は折りに触れ、読者から「あなたの小説で人生が変わりました」とか「あなたの小説に救われました」と言われることがあるという。そういった言葉に村田は感動をおぼえるが、すぐにその種の感情を追い払おうとする。

彼女が小説を書くのは「小説そのもののため」であって、「人類のため」ではない。最近のあなたの人気の原因をどう考えていますか、と尋ねると、彼女は心底当惑したように考えこんだ。彼女がそんな顔をしたのは、ほんの数回だけだ。「みんなどうかしてるんですよ、きっと」と彼女は言った。

(Originally published on The New Yorker, translated by Terumi Kato/ LIBER, edited by Nobuko Igari)

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