量子ネットワークの構築における根本的な課題は、量子情報をやり取りする機器同士の通信手段の確立にある。例えば、超伝導方式の量子コンピューターが扱う超伝導量子ビットは極低温環境で動作し、マイクロ波という電磁波を使って情報をやり取りする。だが、マイクロ波は減衰しやすく、長距離伝送には適していない。そこで、光ファイバーを通じて遠距離まで安定的に伝送できる光信号へとマイクロ波を変換し、再びマイクロ波に戻す手段が必要というわけだ。
この変換プロセスには、マイクロ波・光変換器(MOC)と呼ばれる装置が用いられる。これまで数々のMOCが開発されてきたが、変換効率が50%に満たなかったり、変換中に1光子以上のノイズが生じたりと、量子通信に耐えうる性能には至っていないのが実情だ。
こうしたなか、マイクロ波信号と光信号を相互に高い効率で変換できる装置を、カナダの研究者たちが開発した。「ほとんどの単語を一切の無駄なく、しかも誤訳せずに伝えられる完璧な翻訳機を見つけたようなものです」と、研究を主導したブリティッシュコロンビア大学のモハメド・カリファは説明する。
カリファらの研究チームが示したのは、スピン(自転のような性質)の状態にある電子をもつ色中心という欠陥構造を、シリコン基板上に配置したマイクロ波共振器と光共振器の双方と強く結合させる手法だ。これにより95%を超える変換効率と、1光子未満の低ノイズを実現できる理論的な枠組みを提示した。
色中心とは、結晶内部に形成される微細な欠陥構造のことで、特定の波長の光を吸収したり放出したりする性質をもつ。電子のスピン状態と軌道状態の両方を制御できることから、量子情報の変換において“橋渡し”の役割を果たす。天然のダイヤモンドが色を帯びる原因のひとつも、この色中心に起因している。
今回の研究で用いられたのは、電子がスピンという量子状態を保持できている色中心だ。これにより、マイクロ波と光の両方と相互作用する点が最大の特長といえる。
マイクロ波と光の双方に“窓口”
新たなMOCの中核をなすのは、シリコン基板上に形成された光共振器と超伝導マイクロ波共振器だ。これらの共通の領域に配置された色中心が、マイクロ波信号と光信号の間の変換を担っている。
電子のスピン状態は、マイクロ波帯の電磁場とエネルギーを交換できる一方で、軌道状態(原子核の周りを回る状態)は光と結びついている。つまり、色中心はマイクロ波と光の双方に“窓口”をもっており、その三波混合によって量子情報の変換が実行されるという仕組みだ。
特筆すべきは、共鳴周波数に正確に合わせるだけで変換できる点にある。通常はノイズの影響を避けるために、信号と共鳴周波数の間に数百メガヘルツから数ギガヘルツのずれを設ける必要がある。それが今回の研究では、信号をあえて外部と結合していない自然な固有の周波数に一致させることで、高効率かつ低ノイズな変換が可能になることが示された。
さらに、変換効率が色中心のばらつきや外部条件の変化にも左右されにくく、性能が安定している点も注目に値する。この動作の安定性は、実環境での運用や大規模ネットワークへの展開を後押しする重要な要素だという。
研究チームは今回、理論解析だけでなく具体的なデバイスの設計も提案している。超伝導マイクロ波共振器には、光の漏れ込みによる損傷を抑えるために、光導波路と物理的に距離をとる構造を採用した。また、光の一部が界面からしみ出すように伝わるエバネッセント場についても、導波路と共振器の距離をわずか数マイクロメートル離すことで急激に小さくし、超伝導体内部に光が到達するのを防いでいる。
それでもわずかに光が入り込んだ場合、超伝導体内部では準粒子が生成される。準粒子とは、超伝導状態を支えている電子の結びつきが崩れることで現れる仮想粒子であり、これがマイクロ波の共振性能を損なう原因となる。したがって、こうした準粒子の生成を最小限に抑える設計が不可欠というわけだ。
材料として注目されているのが、シリコンの内部に形成されるTセンターとErセンターと呼ばれる構造である。Tセンターは半金属元素のテルル(Te)に由来する欠陥構造で、光信号との結合が強いことから0.14μWという極めて低い電力で動作する。一方、Erセンターは希土類元素のエルビウム(Er)イオンに起因しており、通信波長帯の光に対応できるほか、磁場との相互作用が強いという利点もある。それぞれが異なる特性をもつことから、用途に応じた使い分けが検討されている。
量子インターネットの実現も現実味?
この変換器がルーターのようなネットワーク機器として実用化されれば、量子情報の送受信を安定して実行できるネットワークが現実のものとなるかもしれない。つまり、量子インターネットの実現も現実味を帯びてくる。
現在はまだ理論段階にあるが、すでにシリコン上には実装可能だ。このため既存のCMOS(電子機器に広く使われている標準的な論理回路)との親和性が高く、通信インフラへの統合も視野に入るという。
将来的には、量子ネットワークによって光や電波の干渉を精密に制御できるようになることで、GPSが届かない屋内に厳密な基準点を設けて高精度な位置測定が可能になるかもしれない。また、複数の量子コンピューターをネットワーク接続して分散的かつ協調的に処理を実行することで、新薬の設計や気象シミュレーションといった大規模な計算に対応できるようになることも期待される。量子世界の情報がマイクロ波と光という異なる“言語”を行き来する時代は、すぐそこまで来ているのかもしれない。
(Edited by Daisuke Takimoto)
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